体というものは妙なもの ~野口晴哉先生語録~
《野口晴哉語録より》
人間の体というものは妙なもので、妊娠すると九ヶ月先に産まれることを体はちゃんと知っているだけでなく、その生まれいずる者を育てるための食物の用意までしている。
一寸先は闇というのは人間の頭の中だけで、体は寒い冬にもう暑い夏の来るのを知って準備している。
病気をしても、治った先のことまで準備しているに違いないのに、悲しいかな、意識は病気怖さにそのことに眼を開かないばかりか、邪魔すらしている。
しかし、体というものは妙なものだ。眼は写真機のように一々絞りや距離を合わせなくともオートマチックに調節する。自動車のフェンダーを擦った時など、これが人間の体だったらとつくづく思う。人間だったら皮膚の怪我など何もしなくても治ってしまう。
また一日二日食わなくったって生きているに差し支えないが、自動車はガソリンがなくなると一緒にピタッと止まってしまって少しも動かない。
不便なのは機械だと何回呟いたか判らない。これを逆にかえせば、人間の体というものは巧妙無比な構造をしている。全く見事なものだ。
頭が疲れれば欠伸が出るし、鼻に飯粒が入ればクシャミが出るし、眼にゴミが入れば忽ち涙で洗ってしまう。何という微妙さ。これが判らない人は、熱が出れば病気だと騒ぎ、下痢をすれば腸が壊れたと慌てる。なんという愚かさ。
このオートマチック・アジャストメントが判らないのか。
この人体の不思議さの中でも最も興をひくのは眠るということである。昨日の疲れも悩みもサッパリと捨て新しくしてくれる。自動車などは埃がつくだけだ。いくら休めたって少しも恢復しっこない。この人間の眠るという現象を健康法として取り入れぬという法はない。
深く眠るには体中を弛めるがよい。ところが体に歪みのある人は、弛めようとしても弛まない処がある。頭が眠ってもそこだけは起きている。新鮮になれないのはその弛まない部分の為だ。
写真
by Hitomiスマホ
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