観念 ~野口晴哉先生語録~

《野口晴哉語録より》


観念の動きをよく見ていますと、観念は自分で作ったものだから

いつでも自分の自由になるのだ、とは考えられない面がたくさんあります。


例えば人に気を使うまいと思うけれども気を使ってしまっているというように、いくら意思を働かせてもどうにもならないのは根っこの心の働きなのです。


上手に歌おうという意志と、上手に歌えないのではないかという空想、この二つが合わさると、いつでも意思は空想に負けてしまう。


上手に歌おうと努力すればするほど上手に歌えないのではないかという心が急に倍加してきて、固くなってしまったと思ったときに、上手に歌えないという観念ができてくる。


それを克服しようと思っていろいろ努力しても、そういう観念ができてしまったら、上手に歌おうと努力すればするほど、上手に歌えないという観念が上手に歌えるという自信をもたせない。


逆に上手に歌えるという自信を持ってしまった人は、いくら欠点をつかれても平気で、その自信は揺るがない。だから自信といっても、不安といっても、つまるところは同じものなのです。


観念を作っていくのは空想であって、意思ではできないのです。「こうしよう」「ああしよう」「こうしたい」「ああしたい」と思うのは意思であり、その観念と意思が対立すると働かなくなってしまう。


だから意思を「立法機関」にしないで「行政機関」として使っていくと、非常に便利です。


私達は意思に全ての行動を任せているけれども、意思にその力があるのだろうかと言うと、その範囲は非常に狭く、意思で動かせるのは手と足だけなのです。


その意思に何から何までみんなやらせようとするけれども、笑いを我慢することも悲しみに堪えることも意思ではできない。悲しいことを我慢していると、なお悲しさが広がってくるし、癪に障ることを我慢していると、さらに癪に障ることが多くなってくる。


つまり意思で抑えるのだと思っていたことも実際は抑えられないのです。だから意思に負担をかけると却って不自由になる。


そこで観念と直接交渉する方法を拓いて、今の自分に飽きたら別の新しい自分を作り、きょときょとする自分がいやになったら、度胸よくでんと座っている自分に変えればよい。


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やさしい野口整体

〜野口裕介(ロイ)先生に捧ぐ〜 Facebookページ「やさしい野口整体」に宮崎雅夕先生が投稿された記事の保存版サイトです。