裡に潜む能力を感じとること ~野口晴哉著「潜在意識教育」~
《野口晴哉著 潜在意識教育より》
裡に潜む能力を感じとること
子供を認めるということもその子供に説明してはいけない。親が本当に、その子供のいたずらの中から智慧を見る。盗みの中からその批判する力を見る。意地悪の中からでもまた見るものを見つけてゆく。
親の目を盗むなどというのもやはり一つの智慧である。臆病だとか用心深いとか言われる中にも理性がある。
不安というものがなかったら、火の中にでも何にでも手を突っ込んでしまう。やはり不安であるということのために、火をつかまないですむ。不安も一つの力である。
だから臆病だと罵らないで、不安の中に理性を認めるというように、その子供の行為の中にあるところの、その行為を最初に起こす力をつかまえ出すことが大事である。
それを現れている部分だけをつかまえ出して、臆病だとか、卑屈だとか、不潔だとかいうように決めつけてはいけない。
親が自分の子として庇う気持ちでなく、また人にみせようという見栄でもなく、ただ素直に子供の智慧、子供の持っている能力、子供の中に隠れていて、子供自身が気がつかないような、そういうものを見出だしてゆく。
カンカンになって怒っている時に、怒る力のあることを認めさせると良い。
「怒ったら、お前は普段はいけないっていうことをやってしまった。怒った場合には親の言いつけに叛いてでもやる力がある。本当に真剣になったらそういう力を出せるのだね、お前は」というように、そういう時に決断できる力をはっきりと子供の中に植えつけるのも決して悪くはない。
言葉で言わないでもよい。親がそう見ているだけで、ラッポール的に自ずから感応が起こる。
庇おうと思っている子供はうるさくまつわりつく。甘えるし、いろいろ訴える。お前は特別甘えさせているのだというようなことを言わなくとも子供はそれを感ずる。
それと同じように、親にそういうような目で見られると、見られたようになってくる。だから、、親がその子供をよいと認めるとよくなる。悪いと認めると悪くなる。認めたようになってゆくのである。
写真
by Hitomi デジカメ
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