「氣」という言葉 ~野口晴哉先生語録~
《野口晴哉語録より》
日本では昔から空気とか天気とかいうことから始まって「気」という言葉を非常に多く使っています。西洋でもこれに似た言葉を使っていますが、どれも細かい放散された物質を指すようなものばかりです。
それに対して、日本人が使う気という言葉は、放散された物質ではなく、物質を正常に放散する力、或はいろいろなものを自分で集めていく力、それを気という言葉で表している。
例えば
体力発揮に関係のある言葉では、「気張る」などがあり、普段よりも余分に力を出すことを意味します。
「穢れ」という言葉は「気枯れ」
「清し」なども「気良し」
「腐る」は「気去る」など、探していくとたくさんあります。
そういう気は全然見えないはずなのに、昔の人は「意気込む」とか、或は「息巻く」とか「いかる」などと表現しています。「いかる」は「息上がる」ですから、怒っている人は気が上がっているのです。
物の動きよりも、もの以前の動きを観ておりますと、現在の我々にもそういうものがあることは判ります。息は当然命のあること。息絶えるは死ぬことなのです。
中略
それで私は、気という問題について、十二、三歳ぐらいの時から興味を持って観てきました。気を感じて死ぬ人と生きる人を観分けました。人の顔を観て「この人は死ぬ」と感じる。そうすると死ぬ。大変よく当たると言われましたけれども、私のは当たるのではなくて、感じてそれを率直に言うだけなのです。
誰もそれは感じている。けれども、自分で意識してそれを言うとなると違う。感じているだけで、何も頼るものがないから、こうだと言えない。
しかし悪いものは一口食べても、これは変だと判るのです。一口食べて変だと思ったら止めれば何でもない。それを変だと思うが、「でも勿体ないから」などと言って食べるのです。するともう、変に感じたそれがそれほどでもなくなる、判らなくなる。
私は子供の頃には感じた通りすぐ言えた。特別な責任もないし、考えても判らない問題であるとしていた。
死ぬとか生きるとかいうのは、ともかく四日過ぎれば判ることなのです。私の感じでは「それは、四日後に死ぬ」と、いつも四日後の話なのです。
百年経てばみんな死んでしまうということは誰でも知っています。けれども、四日後に死ぬとか死なないとかいうことになると、感じているのに言えない。
言えないことから判るように、何かその根拠を求めようとするものがあるから、却って死ぬ間際まで判らない。
中略
人間は、感じるようにできている。だから感じることは割りに正直です。考えて得た結論というのは、同じように考える人が大勢いるかどうかが出発点になっていて、新しい考え方を入れる余地がない。けれども考えても判らないことが、感じるということでは判る。特に人間の生命の問題については、感じるということの方が主である。
感じるということは大変面白いもので、それは何で感じるかというと、気で感じる。
人間の生命のことに関しては、考えることより感じることの方が先だ、いや、感じることの方がもっと重要なのだと思います。
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