運の研究 1 ~野口裕介先生(ロイ先生)講義録~

≪野口裕介(ロイ先生)講義録より≫

運の研究(1)


前文略

それでは神様が与えてくれるもの「ラッキー」という言葉で表現しているような運と、「めぐり合わせ」というような運との違いはというと、神様からもらう運は、ある意味で良いことととか幸運です。


神様がくれるものだから自分にとって良いことだと考える。ところがめぐり合わせというのは、幸もあれば不幸もある。吉もあれば凶もあるわけです。めぐり合わせでどちらでもやってくると考えている。


これは特殊なな考え方かもしれない。「天からの頂きもの」という言葉を使いますけれども、天からもらった運と考えた時には不幸はもらわない。不幸は自分の撒いた種というわけです。けれども、めぐり合わせというと、不幸も運のなさもめぐり合わせになってくる。


日本の考え方の中には、わりにそういうものが強くあって「しょうがないや」という言葉をよく使います。ところが、、フランス人はこの言葉を使うと大変嫌がります。


「それはしょうがないや」と言うと「どうしてしょうがないなんて言うのか」と言い返してくる。中国人も、よく「メイファーズ」と言うそうです。漢字で「没法子」と書くのですけれども、これは〝諦める〟という意味で、日本で言う「しょうがないや」というのと同じなのですが、これはわりに東洋的な考え方なのかもしれませんが、フランス人にとってはそういう言葉は大変怠惰に聞こえるらしいのです。


「しょうがないや」というのは、何もしないで諦めてしまうということだから、そんな言葉を使うのはよくないというわけです。つまり、努力することを否定したり、、一生懸命やることを否定したりすることだからです。けれども、日本人が「しょうがないや」という中には、信じていてもいなくてもどこかでめぐり合わせというような運というものを感じているからそういうのではないかと思うのです。


さて、運と言うものの要素を考えてみると、ひとつにはその人の持つ勢いみたいなものがあるように思います。私たちはよく、「あの人は運が強い人だ」と言いますが、実際にそういうことを感じます。


そういう人の体を観ていると、何となく「この人、運の強い人だな」という感じの何か勢いというものが感じられる。体から放っているものなのか何か分からないけれども、そういう強さみたいなものをどこかで感じることがあります。


反対に、この人はとても運というようなものとは関係のない、とても運など呼び込めそうもないように感じる人もいます。そういう人は何か勢いのない、湿っ気たお餅みたいな体の状態をしています。


そういう状態だと、この人はとても運を活かせそうもないなと思ってしまう。そして、そういう運の悪そうな人と付き合っていると、自分まで運が悪くなってくるのではないかと思ってしまうことすらあります。

つづく


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by H.M. デジカメ

やさしい野口整体

〜野口裕介(ロイ)先生に捧ぐ〜 Facebookページ「やさしい野口整体」に宮崎雅夕先生が投稿された記事の保存版サイトです。