認め方 ~野口晴哉先生語録~
《野口晴哉語録より》
子供が疲れるのは、認められたいことが認められなかった場合だ。どんなに疲れるはずのことでも、それを認められた時にはスーッと気分が新しくなって別な元気が出てくるが、認められない時には急に疲れが出てくる。
これは大人もそうだ。その認め方、褒め方が手遅れにならぬよう、子供の行為をよく観ていなければならない。
相手に催促されて慌てて認め、又褒めるのでは遅い。後手をひいた褒め言葉には害がある。それは子供を時々その褒められる為の行為に追いやる。又は親を、甘し与(くみ)し易しと考える。そして認められない不平は解消しない。
子供が勝手になるのは多くはこういう親の注意が足りない為だ。注意して、口やかましくならないでその認めるべきを認め、褒めるべきを褒めれば、子供は自ずから親の望んでいる子供になる。
望んでいる子供にしたい余り、命令や叱言を強いるのは逆の結果に導く。親の焦りが子供を静かにする訳がない。
しかも認められたい要求のうしろには、日本人を因循にした分子がある。
「お陰様で」という日常の簡単な言葉の中にも、ゆかしさと偽りが同居して何かを訴えている。
花の美しさを外から見るより内から見る日本人には、ものの哀れという意味が解るが、それを強調しだしてお互いの生活を面倒にしている。
こんなに親切にしてやったのに、とよく言う人があるが、何か報いられるものを期待していたなら親切とは言えない。
認められようとする要求は、日本人を因循にしたり、卑屈にしたり、又窮屈にしたりしていること想像以上だ。
日本人の成功主義にも、成功して嬉しいこと以上に、成功したと認められる嬉しさが隠れている。
こういう分子を育てないようお互いに慎みたい。
もっと素直に生きる道を拓いてやらねばならない。
写真
by H.M. デジカメ
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