カザルスのレコード ~野口晴哉先生語録~
《野口晴哉語録より》
私は整体指導に多くはクラシックのレコードを使用している。それは一つには、自分の技術に時として迷いが出るからでもある。
私はかつてカザルスのレコードを聴いて、これは本物だと思った。そして自分の技術もこれに負けないように磨こうと心がけた。
人間の体癖を修正したり、個人に適った体の使い方を指導している私と音楽は関係なさそうだが、技術というものには、どんな技術にも共通しているものがある。
カザルスは完成している。私は未完成である。
懸命に技術を磨いたが、五年たっても十年たってもカザルスが私にのしかかる。
夢の中でも、カザルスは大きく、私は小さかった。
それが始めてカザルスの音楽を聴いて以来、二十四年半で、カザルスが私にのしかからなくなった。
それまではそのレコードを大切にし、空襲の火事の時も、カザルスのバッハの組曲のレコードと梧竹の屏風だけは持ち出していた。
それがカザルスが来朝した時にはもう忘れて、その音楽会へは一度も行かなかった。
二十四年半ものしかかっていた相手がその姿を近くに現したのに、不実なことであるが、私の独り気張りだから、まあ許してもらえよう。
しかしカザルスの影響は濃い。もし私がカザルスのレコードを聴かなかったら、私は今いる所と違った所にいたかもしれない。
しかし今は、そのカザルスのレコードも平気で見ることもできれば、他のレコードと同じように聴くことができるようになった。
うれしいが張り合いがなくなった。
写真
by. H.M. スマホ
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