思春期の教育 ~野口晴哉著作全集第十巻~

《野口晴哉著作全集第十巻より》

後期文集 思春期の教育


十六、七歳の特徴は思春期であることである。生まれるとともに徐々に成長していた性が、裡(うち)から外へその形を現わす時期に至ったことである。成長のもっとも早いのが眼、遅いのは性である。


犬やゴリラなら二年で至る過程を二十年要する。これが人間の特徴であるが、その成長の為にエネルギーが圧縮され、その成長を促すのである。その圧縮エネルギーの外的表出を抑えてしまうショックがあったとしたら、普通の時期より激しい。


劣等感でも反抗でもこの時期が激しいのは、生理的理由によるものである。大人なら失敗を頭をかいてすむことでも、大きな失望から劣等感に至る。時に性格をも歪めて内向的自閉を来すことも稀ではない。


武蔵野の通り魔事件も高校生の行為であった。彼の大脳昇華型体癖の自閉症状は空想にエネルギーが集中して分散するのであるから、こういう行為に至ることはそう不思議なことではない。

ただ不思議なのは、高校生教育の特殊性を理解しない教育専門家がこの圧縮エネルギーの処置を考えないで、これを内向的自閉に至るような教育、宿題、暴力、競争心かりたてで、その鬱散方向の指導について考えていないということである。


子供のみの責任ではない。親の無知の為のみでもない。学校及びその教師の責任は重大である。中略―然るにこの子達を教導していた教師たちは、平然として他の子を教えている。全くおかしなことである。


興味、理想、希望にエネルギー分散の道筋を開くことをしないで、ただ抑えつけ、押しつけ、強制、懲罰、取り締まり、こういったことに教師がエネルギーを費やしていたからである。


教え子を鉄の棒でなぐった教師がいたそうであるが、この教師をやとった校長及び教育委員はその責任を取る可きであり、その教師は教師を廃業す可きである。


ある学校の暴力教師は田舎の学校に転任させられたそうであるが、その地方の子供の迷惑はどうする気なのか。校長の責任逃れは純真な子供に非行をもたらすもとをつくっているといえないだろうか。


教師は教育とは如何なることかということを体得した者であらねばならぬ。

後略


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