体に現れる変化 ~野口晴哉著「人間の探求」~
≪野口晴哉著 人間の探求より≫
自我意識の主張というものも強いものてすが、劣等感のように陰性ではありません。しかしいろいろと数多くの現れ方をしているのですから、拾い出すのに場処が判らないと困る。
今の問題は何か、背骨か、 腹か、胸か、頭か、腰か、手足かと、私にとってはそういう分け方なんです。感情とか意志とかいうように考えないのであります。
意志というのは起これば必ず手足の運動になる。だから背骨の問題なんです。
皆さんが何かやりかけて途中でもって無理に寝ようと思うと、背中が固くて弛まないでしょう。意志は背中にあるのです。
くやしいと思ったのを我慢していると、鳩尾(みぞおち)が固くなって、息を吸うと息も短くなる。泣きじゃくりしながら子供は寝ますけれど、泣きじゃくったりしたらなかなか眠られないですね。
そういったように感情が亢まると、鳩尾がいよいよ固くなる。そういう心の色々なはたらきを、私は体の場処に求めていって、その場処の力を他の場処へ移す。
鳩尾が固く背骨に力が籠っている或る人に「腹が立ったら皿を一枚割るんだ」と割らせてしまったら、それで納まった。これは感情と意志が一つの働きになっていたのです。
中略
だからいろいろの感情上の問題も、突き止めてみれば全く異質のエネルギーの不均衡状態といったそれだけの問題になってしまうような場合が少なくない。
存外キリストに憧れている心が性欲の化け物だったり、もっと金を儲けようなんていう心に追いやるものがインポテントであったり、或いは自分の腕力を誇りたい、大いに自分の名声を誇りたいというようなものがもう老衰の第一歩だったり、盛んにワイ談しているというのがもう年を取ったという証拠であったり、意外な処にもとがかくれている。
それは当人でも気がつかない。ただ体を観察している我々だけにしか判らない。そうやって体を触って見つけた要求を当人にこれだと見せれば無意識はサッと納得する。
意識で否定したとて体に現れる変化に変わりはない。寧ろ意識で否定した時の方がハッキリする。
後文略
写真
by H.M. スマホ
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