話しかけ ~野口晴哉著「誕生前後の生活」~

≪野口晴哉著 誕生前後の生活より≫

話しかけ


受胎した場合に、私は胎児への話しかけということを説きますが、それは胎教ということで、胎教を大切にしていることだと言っている人がおりますが、私は胎教を肯定するというよりは、胎教というような形でいろいろなことを慎まなくてはならないと思っていると、逆効果を来たす場合が多いと思うのです。


裡の要求通りに振る舞うことがむしろ胎教的には重要で、「何々せねばならぬ」という儒教的な胎教知識というものは、体の自然さ、自由さを失なわせて、却って悪い結果をもたらすと思うのです。


そういう意味で私は胎教を肯定しておりません。ただお腹の子は生きものである。そして生まれてから話が判るというのはそういう素質があるからで、形ができていなくても生きていることは確かで、心臓がない時から、血管がない時から、神経のない時から、人間はいきているのです。


だから未熟であっても、心から心へ伝わるものがあるのです。自分の体の中にいる子供にいろいろな要求を伝えようとすることは、胎教というよりは相談なのです。


「お前もつらいだろうから楽に生まれるんだよ」

とか「逆さまでは困るんだよ」と言えば分かるのです。逆子でも九ヶ月位になってから言えば分かるのです。

それなのにグルグル回して矯正しようとするのですが、それによって却って難産を増すということが定説になっております。


中略

そもそも逆子を直すということがおかしいのです。話しかけの方がズッと簡単に自然に、後に苦痛なく治るのです。又、赤ちゃんの潜在意識に対する働きかけということでは、母体が自由であり自然の状態で生活しているということが、一番大切で根本的なことであります。


しかも、子供に話しかけるのは独り言を言うより楽しいし、胎児がそれに答えることも非常に多い。しかしお腹の中にいるうちに意識的な人間の知恵を押しつけるというつもりはございません。


私は儒教的な胎教は否定します。生まれてもこないうちから、人間の社会の集団動物としての知恵や、規則を無理矢理に押しつけようとすることは強引であるし、それは不自然な行為です。


不自然なことを強調すれば安産という方向にはいきません。自然であるからこそ安産に通じるのです。


だから私のいう話しかけを、胎教というような今までの既成概念で受け止めることは迷惑なのです。


中略


親の体の中にいる時でも、外にいる時でも、親の考えや親の体の動作が子供に直接影響するということは同じですから、胎教としていいことはやろうとするのが本当であります。


けれども人間の「べし、べからず」をお腹の中にいるうちから持ち込むということが胎教だと思われているために儒教的な胎教を否定するのです。


判断もつかず、知識もない赤ん坊に遮二無二、人間の大人の知識を強要するのは強引ですし、人権蹂躙です。だから胎教というよりは、どこまでも話しかけという程度に止めるべきで、話しかけるとそれに応じた手応えがあって、それが安産に繋がる場合が非常に多いのです。


一昨日産んだ人もなかなか生まれなかったのですが、「お前の自由の時に出てくるんだよ、お前が楽に出られる時に出てくるんだよ。それまでお母さんは眠っているからね」と言って寝たのだそうですが、寝入った途端に下腹に強い収縮感を覚えたので、きっともうじきお産が始まるのだろうと思って、医者を呼びにやったそうです。


そうしたら連絡の看護婦さんが、室を出てドアをしめた途端にもう生まれてしまったそうです。


「お前は気が早いね」と言ったのだそうですが、しばらくは泣かないで、誰かが部屋に入ってきてガタンと音がしたら、それを機会に泣き出したそうです。


「お前の楽なときに生まれろ」と言ったのは非常に傑作だと思うのですが、少なくともその親の心構えの中に、子供の意志を尊重する気持ちがあったと思うのです。


「何時何分に生まれろ」なんて言うのは強引です。「逆子よ直れ」なんて言うのも間違いだし強引です。やはり最初から子供を一人前の人格として扱うことが一番大事だと思うのです。


写真

by H.M. スマホ

やさしい野口整体

〜野口裕介(ロイ)先生に捧ぐ〜 Facebookページ「やさしい野口整体」に宮崎雅夕先生が投稿された記事の保存版サイトです。