指導の技術 ~野口晴哉著「人間の探求」~

≪野口晴哉著 人間の探求より≫

指導の技術


前文略

まず相手が安心して話せる人間になること、相手と対立していては相手は決して喋らないのです。


相手を打ち負かそうとして、他人の説や議論を借りたりカタカナの人の意見まで持ち出しても、相手は決して自分のことは言わないのものです。


それなら無関心、無対立の立場をとったら必ず大丈夫かというとそうでもない。無対立、無関心というのは下手すると相手にとっては単に外を吹いている風になってしまう。


その風を心の中に吹かせることが技術なのです。

だから無対立、無関心はいけないのです。

関心をもって無関心でいる技術としての無関心をもつ、そういう無関心が先ず必要なのです。


相手の筋が弛んでこなければその心の奥のことは喋れないのです。相手が喋っているうちに力が抜けるように聞いてやらなくてはならない。


喋っている中に段々段々固くなって今度は余分に気取りだしてしまうことのあるのは相手の裡に対立が生じたのであって、自分が対立しなくとも相手が対立してしまうということもあるのです。


指導の技術としての聞き方、話し方の問題ではありません。お互いに黙ったまま、人間の最終にある言葉、裡にある最後の一言を聞けるようにならなければなりません。


それにはお互いの息が通い合うことが第一で、口の動きを耳でとらえて、中途半端で、聞いたつもりになっただけでは意味がない。


だから何を聞くかという問題も、最後の言葉を知らないと、聞いてもほじくっても何処でストップしたらよいかそれが判らない。


しかしそれに触れると相手の体中が瞬間硬くなる。それを無関心無対立、空吹く風のように聞き流す。相手は話すにつれて弛んでくる。弛んでくるように聞き又話す。


少し暗示的に過ぎますが、私には盲人に色を説いているような気がしているのです。ヒントを出して皆さんが人間の最終の言葉を掴まえ出すことを体験していただければ、もっとずっと話がしやすくなると思います。


人間の裡にひそむたった一つの言葉をきく耳さえ持っていれば、相手は訴えるだけ訴えそして心の中が空っぽになるとこちらの指導もすらすら受け入れ、サッサと歩き出すようになる。こちらは何もしないで、一寸気を入れ、抜く。やることはそれだけなのです。


それだけで相手は心の奥にあるものを訴え出す。そこで「あなたの言いたいことはこうだ。訴えたい本当のことはこうだ」


と、掴み出したものに角度を与える。すると方向が変わり、中身が変わると体が変わってくる。体が変わってこなければ本当に触れていないのです。


だから指導というのは言うことより先ず聞くことに始まるものなのです。しかし、聞き方には技術がある。


いくら聞いても言えない本当のことをその言葉の中から聞いて、その言葉の下にある訴え、訴えの下にある要求を掴み出す。聞くより前に相手が何でも自然に訴えてしまうような人になることが大切なのであります。


写真

by H.M. スマホ

やさしい野口整体

〜野口裕介(ロイ)先生に捧ぐ〜 Facebookページ「やさしい野口整体」に宮崎雅夕先生が投稿された記事の保存版サイトです。