人間の願い ~野口晴哉著「大絃小絃」~

≪野口晴哉著 大絃小絃より≫

人間の願い


ここの七夕では、毎年、集まった人達が願い事を短冊に書くことになっています。書くと来年の今頃までにみんな叶うのです。叶わなかったという人はほとんどいない。


それには願いを込めて口に出して言うこと、書いたことを人に言わないこと。自分も忘れてしまうこと。書いたことをいつまでも憶えているような心掛けでは駄目なのです。書いて自分の心にあることを全部空っぽにしてしまう、そうすると願い事が叶う。


私は人の体を調整しておりまして、人間の裡にある心というものが、意外なはたらきを持っているということを知っております。昔から宗教などで奇跡だと言われているような体の変化は、そのほとんどが心のはたらきを基礎にしている。


ところが心のはたらきで体がよくなると、皆気のせいだったのだと言うだけで、心が体の全部を動かしているそういう力であることを認めない。

中略

例えばお酒を飲んで酔っぱらっていても、何か事があって、電報の一通でも受け取ると、瞬間に酔いは覚めてしまうということは、誰しも日常軽減していることです。


昔から奇跡的な変化だと言われていることの多くもこれと同様で、心が動員された結果なのてす。それなのにいつまでも奇跡と呼ぶのは、心は無能無力であると確信しているからに他ならない。それは自分の心を侮辱しているようなものです。


それなら、心をもっと我々の生活の中に直接付けていったらよいのではないか、それでこの七夕の集まりを、自分の心をもう一度見直す機会にと思って始めたのです。


初めはそういうつもりでしたが、やっているうちに次第に「学校の成績が良くなる」とか、「結婚相手が出てくる」とか、実利的な面にいつのまにかすり替えられてしまって、私も又、それに同調して、実際に具体的に、自分の心を実現するにはどうすれば良いかというようなことばかりお話してきました。


今日皆さんが書かれた短冊を見ますと、願い事の記し方についてはだいぶ理解されているようです。皆「こうなる、こうである」というような願いで「こうなるように」というように書いている人は少なくなりました。


けれども「どこの誰と結婚する」などという願い事は駄目で「私に最も適した人と結婚する」という願いなら、その通りになっていく。やはりそういう具体的な細々としたことは、宇宙意思とでもいうべきものに任せておく。


一番最初の気持ち、それを端的に表現できれば、願い事は叶っていくのです。


これまでの七夕では、玄人の見地から、実利的に心の使い方について、心が実現していく一つの道筋をお教えしたわけなのですが、それはあくまでも一つの道筋であって、本当は心の可能性はもっと無尽蔵なものなのです。


例えば、腹へ息を吸い込んで、ウムとこらえて、こらえた時に「大丈夫、俺は生きているんだ」と言うと、体の中から自然に力が出てくる。それをこうすればこうなるとか、こういう養生をすれば無事を保つとかいうような、人間を生き物としてよりは、無機物扱いしている衛生や養生にしがみついている人には、決して持つことのできない力なのです。


願い事は言葉を口に出して、それからそれを紙に書いておけばよいのです。言葉を紙に書いたたけでは、七夕まで届きません。一生懸命心を込めて、気を集めて言うとそうなるのです。


人間が気を一つに集めて心を凝らすということは、決して無能無力ではないのです。実際に、注意を集めて願いを込めれば、どんな願いも叶うのです。


多分、今日皆さんが書いた願いは叶うでしょう。叶ったときには叶ったことを喜ぶより、人間の心には、こういう力があったのだ、永い間使わないで怠慢だったということを反省すべきだと思うのです。


心というと、皆、意志のことだけを考えるのですが、意志には力がない。顔を赤くしようと思っても赤くならない。蒼くしようと思っても蒼くならない。意志はそういう点では極めて無力で、かえってボンヤリした連想といいますか、ある事柄から反射的に想い浮かべる心の方が力がある。


恥ずかしかったことを思い浮かべれば顔は赤くなる。腹の立ったことを思い浮かべれば身体中が熱くなる。想い浮かべるということは非常に力強いものです。


だから意志で実現しようと思わないで、実現することを想い浮かべれば、その通りになる。心を使う順序さえ知っていれば、誰の願いでも、その通り実現する。人間にはそういう力があるのです。


過去から現在まで、人間はいろいろなことを切り開いてきました。机がここにあるといったって、最初からあったのではない。最初に空想があったのです。


出来上がった机の空想が最初になかったら、いくら木を切ったところで机にはならない。初めにいつでも空想がある。そして言葉がある。この順序さえしっかり踏んでいけば、願いは叶い、人間の世界はもっと大きく広がる。人間はそういうようにできているのです。

そして願い事が心の中に湧き起こってこなくなった人は死ぬべき時なのです。たとえ生きていても死んでいると同じです。死ねば新しい人が出てくる。


その代わり、年をとっていても、九十歳になっても、九十五才になっても、心の中にどんどん願いが出てきて、絶えず心の中に新しい欲求が起こる人は。いつまでも生きていてほしい。若くても願いのない人は死んでもよい。


しかし、若いうちは知らないうちに願いごとが起こっているのです。人のやることに腹が立つのも、その人がこうしてくれれば、その人はもっとよくなるのだということを知っているからです。それもまた一つの欲求です。自分のことでも欠点だと思えるものは、思ったその時から変わっていくのです。


欲求は自分で意識しない場合にも起こってきます。女房がもう少し気が利けばと思うのも新しい欲求です。不平は全部欲求です。不平が全くなくなったら欲求もなくなったと見ていい。


まあともかく、人間が心によって生きる道を自分で開拓しているのだということに気付いて、そういう人が多くなれば、私としては大変幸せです。私もまた新しい欲求をもって元気に生きていけると思うのです。


新しい欲求がみんなになくなって目が輝かなくなったら、そういう人達に囲まれて生きているのは厭です。目が輝いている人が多ければ、私も一生懸命生きます。


近頃、幼稚園に行っている子供まで、目の輝きを失っているのが多い。小学校へ行くともっと多い。教え込まれて、自分の欲求を見失ったからだと思うのですが、子供がそういうようではいけない。


もっと皆さんで力を合わせて、子供の目が輝くような、ついでに自分の目も輝くような、自分の周囲に目の輝いた人ばかりになるような世界を造ろうではありませんか。そうすれば本当にもっと活き活きした活発な生活になる。


今、世界中が核兵器に怯えて生活しています。だからといって理想を失ったなどというのはおかしい。目の輝きというのは核兵器を爆発させないだけの力があるものなのです。人間の心は水爆より、もっと力があるものなのです。


by H.M. スマホ

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〜野口裕介(ロイ)先生に捧ぐ〜 Facebookページ「やさしい野口整体」に宮崎雅夕先生が投稿された記事の保存版サイトです。