恋愛論 ~野口晴哉著「大絃小絃」~
≪野口晴哉著 大絃小絃より≫
恋愛論
清姫は、安珍の迷惑も考えられずに、彼を追い廻した。後の人はこれを熱烈なる恋愛とは言うが、猛烈なエゴイズムだとは言わない。恋愛とか母性愛とかいうものに含まれるエゴイズムを許容しているかと見られる。
しかし、恋愛というものはかかるものであろうか、疑いなきを得ぬ。ヴェルテルもまた、自分の恋愛する心を恋愛していたのではなかったろうか。
三原山へ飛び込む若き人々の裡に、果たして恋愛というジェスチャーを見せ付けようとしている心は皆無だろうか。スタンダールの恋愛論の如きは、単に恋愛を性欲の昇華として見ているというより他ない。
男が女を好きになり、女がまた、その故に男が好きになったとしても、これは恋愛ではない。女が男を愛し、男はその故に彼女を愛したところで同じことだ。性欲を抑えた男女が裡からの衝動の故に、何もかも愛さずにはいられない気持ちにかられて相手を愛したとしても、恋愛とはいえない。かかることを恋愛と呼ぶなら、恋愛は結婚の為の一つの方便に他ならぬ。
しかし、人間の恋愛は結婚の方便ではない筈だ。
人間はいつも完全を求める。ドン・ジョバンニが、後から後から女を求めたとしても決して不純ではない。却って一人の相手の完全を幻聴して、その幻影のみを眺めて生きている人達に不純がある。梅も美しいが、桜も美しい。心に美を持ち、その完全を要求する限り、人間は安定することなく彷徨うのが当然だろう。
完全な女、完全なす男の無きことを知っていても、自分の完全でないことを知って、相手の完全でないことに妥協して満足しているとしても、心の裡には尚完全を追求する心がある。その心を抑えて満足感を押しつけていることは、決して恋愛の純な状態ではない。完全の追求は魂のノスタルジアだ。それ故、誰も理想を追求して止まない。心である程度の完全で一時は満足しても、間もなく魂の声が聞こえてくる。バーナード・ショーが女の心の自然に導かれてゆく男をしばしば主題にするが、人間の心の本当の状態を知ったというべきだろう。
心はいつも自然であろうとしている。感じることと、考えることはいつも食い違う。人間の停止することに対する自然の励みだ。
恋愛はお互いの幸せの為にある。しかし、その根本は魂のノスタルジアだ。人間が理想を追い、完全を求めて止まぬ心に、その出発点がある。
相手の幸せの為、相手を彼に敵う相手に渡すことも、また今まで敵っていたと思われる相手を捨てることも恋愛だ。恋愛とは必ずしも、二人が燃えている人間の状態を指すのではない。裡の心の要求をごまかして生きている人達には、已に恋愛を知ることはできない。
方便は方便だ。それ故、本当は恋愛の持続ということはない。これを悟らぬ人々は誰も彼も、自分に恋愛しているに過ぎない。その恋愛は相手にあるのではなく、自分にあるのだ。自分にあるうちは、これは恋愛ではない。
恋愛は美しい。花だからだ。サラリと散る桜は美しい。山吹の実を持たぬのも良いが、腐って木についている花は醜い。なぜ恋愛は美しいか、花だからだ。花は所詮散るからだ。散らなければ花ではない。散る花こそ、春に至らば百花自ずから開く。
恋愛は美しい、裡の要求が実現してゆくからだ。恋愛は苦しい。抑える心を押し退けて進むからだ。しかし、恋愛の裡に冒険を満たす心が混じっていないか、所有欲が変形して住んでいないか。エゴイズムが根を張っていないか。楽しむも、苦しむも良いことだが、一応の反省は要る。冒険を満たす心も、完全を追う心も、その出発点は同じだ。同じであるが故に、恋愛の裡にエゴイズムが動く。
魂の共感。お互いが、お互いに依って、伸び行くものを感じたら積極的に一緒になるのも良かろう。しかし、これが終点ではない。いつになっても柳は緑であり、花は紅である。しかし、そんなことを言っては風紀が確立しないと言う人もある。しかし、恋愛は風紀から生じたのではない。
それ故、ここで説いたのは恋愛の純粋な姿であって、人間の世の中に通用せしめる為ではない。人間の世の中に通用させる為には、人間は頭を持っている筈だ。その運用は身上相談解答者に任す。
写真
by Hitomi デジカメ
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