活元生活入門 ~野口晴哉著作全集 第六巻~
《野口晴哉著作全集 第六巻より》
活元生活入門
前文略
体が正常になればなるほど異常には敏感になるものです。だから極く少し体の一部が壊れてもすぐにそこが壊れたということが判るのです。判ると同時に快復する働きが起こるのです。
それで体が敏感になってくると風邪を宵越しに引いてるなんていうことはない。一時間か二時間風邪を引けばもう治ってしまう。私などは、十五分も風邪を引いたということは稀であります。
正常になるほど異常に敏感になり、異常に敏感になるほど治り易くなる。それを明日ヒョックリ死ぬまで自分は丈夫であると思っていたり、何ヵ月も寝ていなくてはならないような重い病気になるまで健康なつもりでいるのは、体が鈍感なのであります。
そういうのは病気にはならないけれども健康とは言えない。それは無病病とでも言うべきものであります。
そしていったん病気になると、それを権利の如くに用いて、唸り声を出して、「私はここにいますよ」と存在の主張に用います。
人間は皆そうして生きているのです。だから勲章などは子供の玩具と同じようなものなのですけれども、着けたりすると嬉しいのですね。そういうものをくっつけると胸を張って歩きたくなる。
戦争中など軍服が幅を利かせてくると中身の人間が偉くなったつもりでだんだん胸を張っていったものですが、そういうように時々錯覚を起こすのです。
何であれ自分の存在を認められるということが快感なのです。これを存在の主張と申します。
酔っぱらってクダをまいてる人間も、酔っぱらっているということを認められると一緒に自分の存在を認められるから、せいぜい派手にクダをまくのてす。
そこへもっとひどい酔っぱらいがいて、自分がそれを看護する方に廻ったら忽ち酔いは覚めてしまう。酔っぱらったりクダをまいたりするのは「我ここにあり」という存在を主張したい為なのです。
頭の悪い人や仕事のできない人は
時々それを「自分は頭が悪くてできない、自分は不器用でできない」と言えないで、病気のせいにする。どうも亭主が思うように注意を集注してくれないという時には、自分の容色が衰えたということは自分でも思いたくない。そこで自分が病気だからという言い訳を作ると一緒にそういう病気を作ってしまう。
そんな風に、病気が時々自分の存在の主張の代わりになっていることがあります。そういう人達は自分が病気になっていることでどこか安心している。
写真
by Hitomi デジカメ
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