全生談義 -病人という人種- ~野口晴哉著作全集第三巻~
《野口晴哉著作全集第三巻より》
全生談義 病人という人種
前文略
苦しいことと、苦しいことを訴えることは別個なことである。痛んでいることと痛いと言うことは同じではない。苦しい時に呻いたり叫んだりすると楽になることは誰も体験があるだろう。
「痛そうですな」と他人から言われると、「ナアニ、大したことはありませんよ」とさっさと仕事をする人でも、帰宅して女房に仕事でも頼まれると、「こんなに痛んでいるんだ」と顔をしかめてからでないと立ち上がらない。そして痛みはその刹那から激しくなる。
見舞いの人がいる間は病人の呻き声は高いが、誰もいなくなると静かになる。もっともこの逆なのもあるが、それでも看病している人がいなくなると又静まってしまうことが多い。
それを苦しいこととそれを訴えることと同じに考えて騒ぎたてると、いよいよ病人は苦しがり、苦しんでいる自分に同情していよいよ苦しさに弱くなる。
悲鳴の快感、重い病気に平然としている満足感、こういう無意識の動きを了解して病人の心を導いてゆくことを考えねば、命令は反抗を呼び、服従は増長させるだけである。ただ病人の心を理解することのできる人だけに病人は従う。病人に接する人はその心を理解しなければならない理由である。
病人にとっては病気は武器である。病気であればこそよい年をして女房に甘えることもできれば、無理なことも頼め、勝手も言えるのだ。武器は磨き鋭くしておかねば役には立たない。それ故病気を重く苦しく痛くするのであるが、病人は優遇されるべきであるという考えがこれを育て、又この考えによって健康な人の能力は病人の犠牲にされる。
しかもその親切が病人を立ち上がらせる機会をこわしているのだ。病人が病気を失うことを鳥が羽をもがれるように思い、病気からはなれることに名残りを惜しむ気持ちの基を為しているのだ。
しかしこの病人の気持ちを理解できる人でないと、病人をマスターすることはむずかしいのだから可笑しなことである。
中略
スラスラ治ると不安を感ずる。病気に友情を感ずるのみか、一心同体のちぎりを固めているからだ。それ故自分自身治ってゆこうと決心しない。誰かに寄りかかり、何かに身を寄せて自分で踏ん張る気持ちはない。
他人に自分の糞を気張らせて、治らないと、「それ見ろ」というように考えて、治らない理由を他人の技術や薬のせいにして、治そうと焦っている自分だけを広告する。
そして自分にも他人にも納得のゆくような理由を見つけ出して、自分の裡の真の要求をカムフラージュする。
中には自分でその要求に気づいていない人もあるが、気づいていても、そうではないと、そういう要求のあることを否定したい気分の人が多い。自分で立てばよいのだと他人はいうが、しかし自分で立たないのだと思われたくはない。
自分で立てないのだということを示す為に懸命になる。熱、脈の表や尿中の糖量、蛋白などはそのためにしばしば使われる。病人の心理はこの如く特殊なものであって、こういう人々は病気がなくとも他人の目につくように行動したがり、又寄りかかり、常に周囲の目に甘えることをやめない。
後文略
写真
by Hitomi デジカメ
0コメント