感受性ということ ~野口晴哉著「健康生活の原理」~
《野口晴哉著 健康生活の原理より》
感受性ということ
感受性があるから感ずるのだと思っている人もあったが、感ずるから感受性があるというのだ。間違えてはいけない。
教養があるから教養のあることが分かるのだ。教養の美しさはその相手のみにあるのではない。それを感ずる人の内部にもそれがあるのだ。
動いていることの美しさを感ずるのは、動いているもの自身が生き生きしているからだ。生き生きすれば、生き生きしたものを美しく感じ得るのだ。
美しさを感じないものは、花の上をも踏んでゆく。猫が床の間を荒らしても又致し方ない。
美しさを感じてゆくものは、美しさを感ずることにいよいよ精妙になる。ガラスの欠けが美しく感じ得るのも、老婆の顔の中にも。屍体にも、解剖された人体にも美しさを見出すのは、美しさを感ずることが開拓されている。
心を拓けば世界は美しくなる。今まで醜きものに満ちていたこの世を美しい世界にするには、この世界のものを取り替えることではなく、心を拓くことだ。美に向かって。
形の美しさを見ているより、その動いている美しさが分かるようになったことは進歩だ。顔だけで美人を決めるより、その全体を見ることは進歩だ。顔の動きにより、それを動かす心の美しさを感ずることはもっと進歩している。
こうして美しいものは段々開拓されて、この世の中が真に美しいことに気づくようになるのは一体いつのことだろうか。
人間はまだまだ進歩の余地がある。たから、人間の世界はもう暫く続くだろう。まだ二、三千万年の寿命はあるらしい。
写真
by Hitomi スマホ
0コメント