心理指導ということ 〜野口晴哉先生講義録〜
≪野口晴哉講義録より≫
心理指導ということ (s32年)
前文略
人間を本当に丈夫にしようと思ったら、なにもしない、なにも使わないで、その人の持っている体の働きで丈夫になっていくのでなければならない。
病気になってもその人自身の体力で病気を乗り越えたのでないかぎり、病気以前より丈夫になることはありえない。
突っかい棒をされ、補われていたのでは、裡の能力は萎縮してしまう。
人間が丈夫であるということは、何を食べても美味しい。人よりも余分に働いて疲れない。いつでも愉快に生き生きしていることが丈夫だということなのです。
ところが実際に行われている日常を見ると、転々と居をかえ、人より余分に食べようとし、人より余分に寝ようとし、人より余分に働かないようににして、丈夫になろうとしている。
体が弱かったら強い力を呼び起こさなくてはならないのです。腕は使わなくては強くならないのです。足だって胡坐をかいて座り込んでいたのでは。だんだん細くなってしまうが、歩き出せば強くなる。
中略
人間は養生だとか治療だとかいいながら、逆に回復していこうとする体の要求を自分で壊してしまっている。
治療法とか養生として行っているから丈夫にならないのです。糖尿病だからといって、インシュリンを注ぎ込んでも、インシュリンを分泌しない体の状態が糖尿病なのですから、外から注ぎ込んで治そうとすると体は逆に怠けてしまう。
そして、糖尿病であるという状態がそのまま維持されてしまうし、却って体の実力を弱くしている。
だから人間を丈夫にするためには、何にもしないで、その人の持っている体の力だけで丈夫になっていき、その人の体の力だけで健康になっていくことが一番いいのであって、健康にする方法ができればできるほど人間は弱くなるのです。
病気の苦しみに耐えて、自分の中にある力を呼び起こしてこそ、病気が健康法として役立つのです。
病気もまた健康法なのです。病気は生命の安全弁なのです。体の壊れを治していこうとする治療行為なのです。
頭が疲れたら欠伸がでます。悪いものを食べれば吐きます。或いは下痢をします。それを、人は病気だというけれども、それはみんな体を守るための体の治療行為なのです。
それを病気にしてしまって騒ぎ立ててるけれども、最初に自分の体の力だけで丈夫に生きていくという決心さえしていれば、病気も、災難も、失敗も、みんな自分の中にある新しい力を呼び起こす機会になるのです。
それを自分の大便を出すのに人に気張らせようとするから。いつになっても丈夫にならない。
自分が生きているということの責任者は自分なのです。自分の体を管理する責任者は自分なのです。自分の体の壊れているところを治すのも、また自分であって、自分以外の何者の力でもないのです。
人間は空気で生きているといっても、地球を覆うほどの空気の中で人は死んでいるではないですか。食物を食べているから生きているといっても。胃袋に食物を満たしたまま死んでいる人はたくさんいる。
生きているということは食物を力にし空気を力にして生きていくのであって、自分以外の誰かの力でもないという、その考え方をぴたっと決めさえすれば。どんな病気も災難も少しも恐くないのです。
そう決めて生きていれば、生きるということは甚だ気楽で〝こうしなければいけない〟〝ああしなければいけない〟などと、常に怯えて生きていることがいかに無意味なことであったかがよくわかる。
写真
by H.M. デジカメ
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