裡(うち)の感覚 ~野口晴哉著「体運動の構造第二巻」~

《野口晴哉著 体運動の構造第二巻より》

裡(うち)の感覚


この間、ガスの中毒で殆ど死ぬ間際まで行った女の人がおりました。彼女は息を吹き返して、「あんなに気持ちのいいことはなかった。あのまま死んでしまうのなら、死ぬのは実に楽ですね。けれども息が戻ってからというものは急に苦しくなった。こんなに苦しいのなら生きるなんて厭なことだと思いました」と言っておりましたが、楽になるということは、死んだということと同じなのです。楽になることを突き詰めた処は死なのです。


生きるのは苦しいのです。だから、異常があるのに異常を感じなくなったというのは、体が鈍ってきたということで、苦しいというのは、生きようとする働きが体の中に起こっているということなのです。


楽になるように痛みを止めるとか、苦しいのを麻痺させるとかいう考え方は大変に可笑しい。生きていれば苦しいのが当たり前で、苦しいから生きていることが判るのです。


我々が活元運動や愉気をしておりますと、だんだん感覚が生きてきます。そして少しの異常でも感じるようになります。


痛いという処に愉気をしていると、だんだんそれが(痛みが)取れて、そこに当たっていた手が 自然に離れて他に行く、そしてそこでまた新しい感じが起こる。


三年前、あるいは五年前に痛めた処が、また同じように痛みを感じ出すということがよくあります。それは、体が恢復して痛みを感じられるようになったからです。


今まで感じられなかったものが感じられるということは進歩です。風邪を引けば、そこで偏り疲労が調整されるのです。引かなければ、もっと長い間その偏りが続くのです。


整体にするということは、体の持っている感覚を活かしていくことであり、体が生きる方向にいくようになるということは、それ自体が恢復を示しているのです。それを病気を背負っているような人達は、そういう新しい異常感を迎える心の準備がないのです。


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by Hitomi デジカメ

やさしい野口整体

〜野口裕介(ロイ)先生に捧ぐ〜 Facebookページ「やさしい野口整体」に宮崎雅夕先生が投稿された記事の保存版サイトです。