殻 ~野口晴哉先生語録~

《野口晴哉語録より》昭和18年


蝸牛(カタツムリ)の殻も大へんだが、まだ背負って歩ける。田螺(タニシ)や栄螺(サザエ)の殻に至っては見ていても重たい。弱いものには欲しいものだろうが、強くなろうとするものには、少々荷物だ。少し図々しいが、宿借りの殻なら、まだ気が楽だ。


医学辞典を丸暗記したのか、胃袋の中へ飛び込んで見てきたようなことを、ものものしく並べ立てて、生理学のありふれた理論を大きな声で言い立てている人の顔をジッと見ていたら、ふと宿借りを思い出した。


「鬼面人を嚇(おど)す」のは蟷螂(カマキリ)だけかと思っていたが、そうばかりでもないらしい。また髭(ひげ)と鬚(ひげ)、鼻眼鏡のものものしい栄螺を見たことがある。殻の言い訳して忙しそうだった。


殻を大きくする程、その維持に骨が折れる。それが知識であっても、肩書きであっても、また単に立派に見られたいということだけであっても。


殻が重すぎて人間が身動きできなくなっていることを良く見るが、人間が生きているということは、人間が生きていることであって、殻が生きていることではない。


生命の発展ということは、人間が殻の為に生きていることを停止して、その任意の存在であることだ。


こう見られたい、ああ見られたいと他人の目の動きに向かっていつも生きているのでは、殻は生きても人間は死ぬ。


生の一瞬といえども、吾らに対する自然よりの貴重な贈り物である。吾々自身が生き生き溌剌と生きねばならぬこと言う迄もない。


執着とか、気取りとか、可し可からずとか、人間が溌剌と生きることを妨げる重い殻をすっかり壊してしまって、もう少し自由になろう。その方が息をするにも楽だ。


吾らは人間が生きているということをハッキリ見定めよう。


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by Hitomi デジカメ

やさしい野口整体

〜野口裕介(ロイ)先生に捧ぐ〜 Facebookページ「やさしい野口整体」に宮崎雅夕先生が投稿された記事の保存版サイトです。