個性の発見 ~野口裕介先生(ロイ先生)講義録~
《野口裕介(ロイ先生)講義録より》
個性の発見
ー体癖に至るまでー
前文略
人間は緊めたときの快さに敏感な人と、弛めた時の快さに敏感な人がいます。どちらの方が自分に濃いか、強いかと考えたときに、緊めているときの快感というものにある快さをかんじられる人と、弛めたときにある一つの快さをかんじられる人との二通り種類が分かれてきます。
そういうのを体癖で言うと奇数、偶数で分けています。
緊張する傾向が強い人を奇数、弛緩する傾向が敏感な人を偶数というふうに分けている。両方入り混じっているに違いないのですけれども、どちらかが濃くあるのではないだろうかということは、見ていくことができます。
体癖のことを話していくと、なんとも夢がないとかなんとか言う人がいます。何か自分がそうだと決め付けられてしまうという感じになって夢がなくなってしまうと。そうかもしれない。けれども、自分自身を丁寧に見つめてみると、体の波と同じように、体癖も自然に備わっているのです。
波ならわかりやすいでしょう、誰だってずっと動きたくなる時期もあれば、体を休めている方が有利な時期とがあって、それを一定の周期で繰り返しています。それに逆らうことは本当は難しい。それは生き物そのものリズムだからです。そういうリズムというものがあって、それを自覚したりあるいはそれを認めることによって、一つの世界というものが、今まで自分で何でも出来ると思っている世界と違う一つの世界があるのだということがわかってきます。私たちは自然の中で、そういうリズムの中で生きているのですから、そういうものを感じたとしても少しも不思議ではない。
それと同じように、自分の中にある体癖的な傾向というものは知っておかなければならないのです。それはある意味で個性の方に属するものです。個性=自然、つまり最もその人の自然な状態なわけです。そして自然な状態というのは、要するに不随意的なものです。心臓がドキドキ動いていると言っても、意識して、随意的に動かしているわけではない。不随意的に動いてくれている。
しかし、ここに自我の問題というものがあって、自らを高めようとする努力とか何かを否定しているわけではない。それはそれでまた、それを伸ばした人もいれば、伸ばさなかった人もいるし、その人の生き方というものがあるわけですね。けれどもそういう中に、波と同じように体癖というものが自然に備わっている。
それは個性に属するようなもの、そういうものがありますよということを知ってみると、一つの違った世界観というものが出てくるということを言いたいのです。
最初に申し上げたけれども、これはたぶん、野口先生という人の例えば生い立ちであったり、そのおかれた環境であったりということとも大変関わりがあるかもしれない。
人間を、様々な肩書きやら何やら、いろいろな飾りに囲まれているもので観ていくのではなくて、一個の人間をそのまま観ていく、そういう一つの決心があり、そうやって観ていく、そのことに徹して観ていくことによって、体癖という一つの見方を見つけ出したのかもしれません。
写真
by H.M. スマホ
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