本来の体育 1 ~野口裕介先生(ロイ先生)講義録~
《野口裕介(ロイ先生)講義録より》
本来の体育(1)
整体協会というのは文部科学省の認可を受けている社団法人(現在は公益社団法人)で、昭和31年に私の父の野口晴哉が創設した団体です。
野口晴哉先生は昭和の初期からこういう活動をしておりましたが、はじめは謂わば療術、今で言えば民間療法というようなかたちでやっておりました。それなりに成果がありまして、大勢の人の信頼を得ていました。
ただ病気治療術といっても、器具を用いたり、薬品を用いたり、鍼を打ったりということではありません。愉気をすることや整体操法を用いておりました。「精神療法」と名乗っていた時期もありました。
十二才から始めたのですが、十七才ですでに日暮里に道場を構えて活動しておりました。今で言えば高校生ですが、その当時から「全生」という雑誌を発行し、文章も書いておりました。
そういう意味では、小さな子供ということではないですけれども、十七才の子が大人を指導し、講義をしていることが不思議だったようで、当時、近所の人たちはこう言っていたそうです。「ああいうのがたまに出るんですよ。でも、二十過ぎればただの人でございますよ」と。まあ、世間一般で考えても不思議なことだったのでしょう。
なかなか人気があり、有名な人も大勢来ていたそうです。その中に横山大観という有名な画家が来ており、活元運動や愉気を習ったりして勉強していました。或る時、その横山さんが色紙に絵を描いて下さったのだそうです。それは野口先生がみんなを相手に講義をしている絵だったそうで、添え書きにこう書いてある。
「十七少年、七十老人に法を説く」と。
ところがもらった本人はそれが気にいらない。
人間というのは不思議なもので、若いときに「若い」と言われるのはすごく嫌なのです。
中略
ともかく「十七才少年、七十老人に法を説く」という添え書きが気に入らない。それで、誰かが欲しいと言ったのでポンとあげてしまったそうです。
最初は、関東大震災後に日暮里という東京の下町で始め、そして昭和九年から下落合に道場を移しました。下落合は今でいう田園調布みたいなところで、山の手です。
集まってくる人たちは、いわばその当時の羽振りのいい人です。
当時の羽振りのいい人というと貴族や軍人さんですね。
中略
下落合に移ってから集まってくる人たちは、そういう貴族とか軍人ばかりだったので、いろいろ大変なことがあったそうです。
今なら簡単なことですが、例えば指導を受けるのに到着順に順番を待つという、たったそれだけのことを守らせることすら大変なことなのです。戦争中だったら、陸軍大将がやってきた時に「順番がくるまでそこで待っていなさい」と言うだけだって、命懸けです。
中略
終戦間近の頃は、整体協会の道場に来ると軍人さん達で参謀会議が開けるのではないかというくらい集まって来ていた。そういう中で、或る一つの見識を保っていかなければならないわけですから、なかなかそれはそれで大変だったと思うのです。
中略
しかし、戦後になって世の中が全部変わってくると、戦後の自由さというものを、或る意味でいろいろな発想に使うことができました。そこがまず始まりだったのです。
例えば、それまでは病気の治療をしようと思って一生懸命やっていたけれども、「病気を治療するということは、果たして正しいのだろうか。病気は治さなければならないのだろうか」と考え出すようになってきた。
そして、「病気にも意味があるのではないのだろうか、熱を出したり、風邪を引いたりすること、それにも意味があるのではないだろうか」と考えるようになってきたのです。
「悪いものを食べて吐いたというが、吐かなかったらどうなるのだろう。吐かなかったら、中毒したり、もっと体を痛めてしまうのではないだろうか」と。吐くという行為を病気だと言っているが、それは体がもともと持っている体を守るための本来の働きなのではないだろうか。
本来の働きを「病気だ」と言っている。それはおかしいのではないだろうか。衛生が間違っているのではないか、と考えるようになってきたのです。
また、「調子が悪い」と言ってくる人を元に戻す、治してしまう。そうやっていると、いつまでたってもその人の生活は変わらない。
中略
何かあると「あそこに行って治してもらえば大丈夫だ」ということになってしまう。
人間というのは、人に頼るようになってしまうと、自分の力を発揮することをしなくなってしまう。柱に寄りかかって座っていると、柱がポッと抜けた途端にひっくり返ってしまうように、皆が医療に頼り出すと、医療がどんなに発達したとしても、肝心な人間は丈夫にならない。本気で自分の力を出そうとしない。
中略
戦後になってそういうように考えがかわってきたのです。
つづく
写真(人物はカカシです)
by H.M. スマホ
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