愉気の本来の状態 ~野口晴哉口述「愉気法講座135」~

≪野口晴哉口述 愉気法講座135より≫


前文略


色々な場合がありますけれども、愉気というものは人間の持っている本能の働きです。昔の人間の医術です。


健康を守るのに、それを使うことが一番懸命であり、それをやることで丈夫になっていくのです。愉気をやる度に丈夫になっていく。


無いに等しい力です。それが効果があるかないかだって当てにならない。それで治るということ自体が、その人の体の働きが十二分に働いて良くなるということである。


だから私は愉気する場合、「この毒素を消す」とか「眠りを深くする」とか何々の為にというつもりで愉気したことはありません。


お互いにこだわりあっている心を流し、昂っている気を静まるようにし、心が自然であるように、お互いの息が一緒に合うように愉気します。


悪いところを良くしようなんて思って愉気しません。私の愉気が他の人に比べて効くとしたならば、そういう心構えだと思うのです。


「病気を治そう」なんて思えば病気があることになります。病気をあるようにさせてしまって、それに喧嘩を挑んだってそれはしょうがない。ただ心を静かにして、体の働きが活発になれば自然に良くなる。


そしてそういう心構えで、体が活発になって良くなるならば、一つの方法で万病が治っても不思議ではないのです。


それを故障はオンリーワンと思わないで、幾つも幾つもあるようなつもりになってそれに対応する。幾つもの治療が要るように思って、そして、病気の名前と治療法を増やしていく。そうすると忙しくて仕方がない。


そして、その方法でなくては、その異常は治らなくなる。


体がよくなっていけばそれで良い。体の働きが活発になっていけばそれで良い。体には調子が良いときは「快」というものがある。悪いときは快くない。


愉気していてその快さが甦ってくれば良くなってくる。愉気というものはそういうものです。愉気する力で治すものではなくて、相手の裡(うち)にある働きを活発にするとか、自然にするとかいうことで良くなってくる。


だから胎児に愉気して感じるのも当たり前だし、他の方法では胎児が治らないようなもの、或いは生まれてからでも治らないようなものが治るということがあっても不思議ではない。といってそれは治療法ではないのです。


体の働きを活発にするためのものなのです。私はそういう愉気の本来の状態で手を当てるからだろうと思うのです。治療というものに疑問を持って捨てましたけれども、愉気だけ残しておいたのは、愉気するということは、治療するということと違うからだと、そう思ったからです。

だから残して愉気しあっている。


写真

by H.M. デジカメ

やさしい野口整体

〜野口裕介(ロイ)先生に捧ぐ〜 Facebookページ「やさしい野口整体」に宮崎雅夕先生が投稿された記事の保存版サイトです。