自発的に働く心 ―心の構造― ~野口晴哉著「体運動の構造」~
《野口晴哉著 体運動の構造より》
―心の構造―
自発的に働く心
心というものは、自発的に働いたものでないと体に力が湧いてこないのです。多く運動したから疲れるかというと、そうではない。止むなくやったのは疲れるが、自発的にやったのは疲れない。
だから運動を観る場合に、それが自発的か否かということが一番大事ですが、心の動きにおいても同じことがあるのです。
自発的に動く心以外は体に関連がない。あっても僅かなのです。自発的に心が動くと、ドンドン発展するのです。だから自発的な心の働きを促す方法として、チップをやるというのもその一つ、牛ならそのまま踏んで行く一万円札でも、人間が貰えば元気の元になる。
競争心をそそるというのはいやらしいけれども、今の学校教育では競争心をそそって勉強させる。だから点をつけます。競争心をそそって体育をやる。だからスポーツでも勝ち負けで決めるのです。そうすると自発的に動くからです。そういう動物的な考え方以外に、人間の中には自発的に働いていく心があるのです。
それは想い浮かべるということです。想い浮かべる中に、もう一つ想い浮かべさせるということもできるのです。お産の痛みでも、絶対に痛まないという断定は、逆に痛みを誘導することになります。
Kという人が「痛くない、痛くない」という自己暗示法をお産に利用して、痛くなるたびに「痛くない、痛くない」と繰り返して言わせた。すると、言うたびにもっと痛くなる。
「痛くない」は、「痛い」の肯定なのです。痛いから痛くないと思おうとするのです。もっと親切にしようと思うのは、不親切を肯定しているのです。「しっかり勉強しろ」と言うのは、「馬鹿だから」と初めに決めているものがあるのです。
「寝小便するな」と言うのは、「寝小便をする」と決めているものがあるのです。だから治そうとして努力したり、あるいはしまいとすることは、自発的には次の寝小便を引き起こす。「寝小便をするな」という言葉は、「寝小便をするぞ」ということの暗示なのです。
中略
だから暗示を与えるといっても、与えるだけのものではないのです。相手の心の自発性を誘い出す、それが暗示の実体だと思うのです。それを暗示と明示の区分もつけないで、ただ押し付けるのは可笑しいのです。
写真
by Hitomi スマホ
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