氣の問題 ~野口晴哉口述「愉気法講座(99)」~
≪野口晴哉口述 愉気法講座(99)より≫
気の問題
前回、愉気について説明致しました。特に「気」とは何か、この問題について説明致しましたが、要すれば人間の注意の密度であると。
注意の密度が高まってくると人間に気が集まってくる。そういうコースは判るが、気とは何だろうかというと、説明が難しい。
しかし物理学に於るエネルギーといったような説明の道具としては、有るより無い方が判り易い。
神経系統がどうして心になるのか、神経系統の刺激が何故心の働きになるのかというようなことになると、気というものを掴まえない限りは判らない。
私の申します気というのは実際の人間を作っているもの。。。
例えば誰かと会います、会って話をして誰に会ったと、誰々に会ったと言うが、誰々は何処にいたかと。。。
親も、子供も、「俺だよ、ここにいるよ」と言うから、
「君って、鼻か」と訊いたら、「違うよ」、
「胸か」と訊いた。
それでそのうち泣き出しました。だって自分がいないんです。
中略
一体自分というのは何処にあるのたろうかと、判らない。だけども皆判ったつもりになって、貴方とか私とか言っているが。
例えば自分の体中が私だと言うが、両足をもし何かで切断したら、ワタクシがワタクになってしまって、その人は「ワタクは、ワタクは」と言うかというとそうでもない。やっぱりワタクシのつもりでいる。だから半身不随になったって、私はある。
そう考えると体の代用でもない。興奮しても沈んでも私はあるのだから、心の状態とも言い難い。
では私というのは何かと。
気というのはそういったようなもので、その中にある私が、自分といぅのが満ちている時は、いつの間にか人の気が伝わる。それが萎縮しているときはいつの間にか人の気を引く。そういうように動いてしまう。
人間のそういう意識以前の力、或る人が言うと横車でも通る、或る人が話をすると正当なのに通らない。正当な要求を訴えても、怒鳴ってもなかなか通らない。
何か人間の中にそういったような力が別にあって、それがあるものは、自然に皆の注意を引く、或いは皆がそれに付いていく、つまり親分には親分の気があり、子分には子分の気があって、子分の力しか無い者が親分のようになろうとすると、余分に気張ったり何ぞ激しく振る舞う。
だけども何故気張るかといえば子分だからである。リーダーになるような人はいつの間にかリーダーになって、人をリードしてしまう。
それは、何によるかと、人相か、体の大きさか、違う。そういう裡にある力、それによっていつの間にかそういう位置を得る。
だから実際の人間の生活では見えない私とか、何処にいるかわからない私とか、見えない気とかいう力が人間の実際の生活をしているので、病人などでも弱ってくると誰かに居てもらいたい。気を得ようとする。一人になると何か寂しい。
確かに人間は、集団動物だから、そういう意味で一人には耐えられないけれども、それ以外にそういう気の問題がある。
この人が好きとか嫌いとかいうのもそうで、磁石同士をそばへ持っていくと離れたり、くっついたりするようになるのと同じで、先にそういう気が結ばれると好きという心が起こってくる。だから実際そういう心の起こる前に気の問題がある。
写真
by Hitomi スマホ
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