死について ~野口裕介先生(通称ロイ先生)講義録~
≪野口裕介(通称ロイ先生)講義録より≫
死について
前文略
野口先生は、昭和五十一年の六月二十二日に亡くなられましたけれども、死ぬ一週間前まで操法(整体指導)をしていました。死ぬ間際まで、先生に愉気しようと手を出すと、突然その手をフッと調整してしまう。こうやってやるのだよと教えている。
もう習い性になっているのでしょうね、きっと。手がやってしまうと言えば、そうなのかもしれない。とことんそうやって、働いて、働いて、亡くなっている。
しかしそういうことを周りにいる人たちが見ていて、やはりそれで何か習っているのです。一番大事なことを習っているのかもしれない。
死というものは、人に見せたり教えたりするものではないと言えばそうなのかもしれないけれども、人にできる最大の教育でもあると考えていただきたいのです。
最後に一つくらい世の中の人に教えてあげることがあった方がいいではないですか。一つぐらいよいことをしていった方がいいと思いますよ。
そうやって死というものを考えた時に、その終わり方によって何かを残すこともまたできる。死ぬことによって初めて活きてくることというものがあるのです。
それはたんに血の繋がりという問題だけではありません。生きているうちは駄目で、死なないとわからないこともあるのです。死んではじめて理解できたとか、分かったというようなこともある。
それはある意味ではずーっと何かが生き続けているということなのでしょう。きっと、そういう意味では、死で全部が終わっているわけではない。来世というのは、もしかしたらそういうところにあるのかもしれない。
最初にもお話しましたが、時があるということは、ある意味では呼吸しているということなのだろうと思います。生きているというのは「息をする」ということで、生きるということはいつでも「いき」ということ、呼吸ということに関係があります。
まあ、呼吸ということと時間ということが一体になっていると言ってもよいのかもしれない。そういう意味では、来世にまでその呼吸が伝わっていく。それが次の世に生きているということなのかもしれない。
後略
写真
月刊全生より。
野口晴哉先生
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