親切の研究 1 〜野口裕介(ロイ)先生講義録〜

≪野口裕介(ロイ先生)講義録より≫
親切の研究(1)

前文略

さて、世の中の色々なことが親切で行われています。薬品だってそうでしょう。世の中にとって、人にとって良いことだろうと思って製造しているわけです。悪い気持ちで生み出していることは全くない。

親切な気持ちで始まっていることは否定しません。事実それで多くの人が救われています。けれども、それも使い道を誤れば、どんなに良いことだって親切になるとは限らないのです。

私たちが行っている整体指導といった場合も同じでして、整体指導というのはまさに親切でやっておるのではないかと思うのですけれども、これも使い方を誤れば親切にはならないわけです。

例えば、整体指導を長く続けてやっていますと、やることは順々に減っていきます。明らかに減ってくるものです。前は「ここもやらなければ、ここもやらなければ」とたくさんいろいろなことをやってあげるのが親切だと思っていましたが、今はなるべくやらないで通してしまうことが多くなりました。

待っている部分、放っておく部分というものが多くなってくるのですね。けれども、それを不親切だと思ったことはありません。却って余分に手を出し過ぎないように注意を払うようになってきました。

下手なうちはいいのですよ。下手な鉄砲も数打てば当たるというような形でやって悪いことはないのですけれども、上手になってくると手数は順々に減ってくるものです。

究極は、何もしなくて、ただこうやって話を聞いているだけで済んでしまうということではないかと思っています。まあ、そこまで言わなくても、相手の人がただ会って話をしているだけで満足できるというようなことがあれば、それが一番自然なのではないかと思っています。

私も最初にやり始めた頃には愉気することしかできない。それにいろいろなことをやったとしても相手にそれだけの成果が上げられるかどうかということもわかりませんでしたから、とにかく愉気をすることだけをしました。

そうやって一年経ち二年経ち三年経ちとやっているうちに、順々に「ああ、この人はここの処がおかしいんだ」というのが分かるようになってきて、同じ愉気をしていくといっても、この部分を愉気していくとこうなっていく。

そしてさらに経験を重ね、知識も豊富になってきて、「あの人と同じだな」「この人のこういう状態は前にもあったな」と、だんだん人の体を読んでいったり、観察していくことが上手になっていく。

何年か前、外国旅行から帰ってきて何日かしたら突然記憶がなくなってしまったという人がいました。まだ五十代の人でしたが、つい先日外国旅行をしたことも、昨日あったことも皆忘れてしまって思い出せない。

突然記憶がなくなってしまった。それで家族の人が慌てて連れてきましたけれども、以前私は同じような状態の人を観たことがあります。

大学で薬学を教えている先生でしたが、授業中に突然記憶がなくなってしまった。それで授業ができなくなって、「気分が悪いから」と言って終わらせたのだそうですが、前に何をやったのか全然覚えていない。そういうものを一過性健忘症と言うそうですが、首がおかしい人によくそういうことがあります。

続く

やさしい野口整体

〜野口裕介(ロイ)先生に捧ぐ〜 Facebookページ「やさしい野口整体」に宮崎雅夕先生が投稿された記事の保存版サイトです。