風 ~野口晴哉著「偶感集」~

《野口晴哉著 偶感集より》


良きことも、悪しきことも、外にあるのではなく、自分のそれに処する能力にあるのだということは明らかだ。

それなのに悪しきことを避け、良きことを求めようとするのは何故か。

弱いからだ。その心が起こるそのことがもう能力の無いことを示している。

そうしている限り安心は無い。安心が無い限り、良いことも、悪いことも、心配の種だ。

良いことは失うまいとし、悪いことは早く去れと希う。

事の良し悪しに拘らず、それに処する能力さえあれば、求めず避けず、いつも悠々としていられる。

それなのに何故、人はあくせくしているのか。

良いことや悪いことが、外からくるのだと信じているからだ。

能力が無かったら伸ばせばよい。

腕の力でも、脚の力でも、使ってゆけば強くなる。

人間の一切の力を伸ばすことは難しいことではない。

苦しいことをとしどし拡げて、苦しいことが楽しくなる迄苦しめば、それで良いのだ。

苦しむことが楽しくなり、苦しんでいることが面白くなったら、それで能力が拡がったのだ。

依りかかることをやめて、自分で立つ。立てないで転んだら、又立つ。又転んだら又立つ。立つ意思がある限り、人は強くなり、その意思がある限り、転ぶ毎に人は伸び、能力は増える。

転ぶことを厭いて、立たない人はどんどん弱くなる。

自分の足で歩かない人は歩けなくなる。立てなくなる。

立てなければ転ぶこともできない。

それなのに、転ばないことを慎重のつもりでいる人もある。慎重と用心は、人が先のことを判るつもりでいることから始まる。これは知恵のある行為だ。

しかし、その知恵の為、決断と実行を失って、人は眠ってしまっている。しかも眠っている間に、気が抜けてしまう。

失敗したらやり直すだけだ。失敗をいくら繰り返しても、失敗を活かそうとしている限り、失敗ではない。

そしてそういう人には失敗は無い。

それ故、安心は何もかも全く知らないでポカンとしている時と、何もかも知り尽くして、その時そのように処する能力を持っている時だけにあって、慎重と用心からは産まれない。

何もかも知り尽くすということは、何もかも判らないことが、本当に判ったことをいうのだ。

何もかも判るつもりのうちは、判るということはない。

知り得ない人間が、知り得ない世の中を、知り得ないままに歩んでいる。

手探りしている人は、知り得ないことを知っていない人だ。知り得ないことを知った人は、大股で歩んでいる。

闇の中で光を求めているのは、知り得ないことを頭で判った人だ。知り得ないことを本当に納得した人は、光を求めない。又頼らない。その足の赴くままに、大股で闊歩している。彼はその裡なる心で歩いているのだ。

後ろを振り返るは弱いからだ。手探りするは信なき者だ。足もとを見ているのは、先の見えぬことを、腹で判らぬ人だ。哀れなことにそういう人はいつも汗をかいている。


写真

by Hitomi デジカメ

やさしい野口整体

〜野口裕介(ロイ)先生に捧ぐ〜 Facebookページ「やさしい野口整体」に宮崎雅夕先生が投稿された記事の保存版サイトです。